こんばんは。かたかなです。
「熱心に」とはどういうことなんでしょうか。
どこからが熱心というのでしょうか。
何か基準があるのでしょうか。
私は一度好きにになると結構長く好きでいます。基本的には多くの人がそうだと思います(何か悪いことでもない限り)。
田中圭は中学生の頃(もう15年くらい前)から好きですし、牧場物語も小・中学生の頃は許される限りやっていました。
じゃあ、”田中圭のオタク”なのかと聞かれると、そうとは言えないです。それは「田中圭のことは好きだが、詳しいわけではないから」自信をもってオタクとは言えないということです。
じゃあ、”田中圭のファン”なのかと聞かれると、そうだと思います。それは好きだという気持ちは確かだからです。どういうところが好きなのか説明できる語れます。
オタクとファン、似た言葉ですがこうもニュアンスというか印象が違うのはどうしてでしょうか。
言葉の意味を確認してみます。
オタクとは
ある事に過度に熱中し、詳しい知識をもっていること。また、そのような人。
(デジタル大辞泉より)
ファンとは
スポーツや芸能、また選手・チーム・芸能人などの、熱心な支持者や愛好者。
(デジタル大辞泉より)
オタクは、好きを語るならそれ相応の知識を求められるようなイメージがあります。
しかし、昔はそうではなかった気がします。オタクたちは、「どれだけ知っているか」ではなく「どれだけ好きか」で盛り上がっていたような気がします。それこそ、ファンと同じ”愛好家”という一面が大きかったような。
現代の情報社会においては、その「どれだけ知っているか」という評価がいかに大事かは、言うまでもないでしょう。
暴露系YouTuberが芸能人の過去を世間に広めて話題になってしまっているのも仕方ないですよね。
平成生まれのわたくし、時代を感じます。
そして最近は、ファン(愛好家)においても、知識を求められてきていると感じています。
古参とか新参とか。
古参だったら詳しいのか。否。私はおそらく田中圭ファンの古参ですが、『おっさんずラブ』とかから田中圭ファンになった人より田中圭については詳しくないと思います。全ての出演をチェックしているわけでもないですし。
好きだから詳しくなったのか、調べているうちに好きになったのか。
入り口は色々かもしれません。が、私は、「好き」マウントならともかく「知識」マウントは心が擦り減るだけなのでやりたくないですね。
だから公に好きと言いづらくなりました。
ゲームもそうです。好きだからと言って攻略方法を知っているわけではないです。爽快感とか達成感とか、みんなで協力するのとか、そういうのが好きなだけなのです。
情報社会の今、ただ「好き」でいるだけでは価値がないのでしょうか。
「愛好家」でいるためには「知識」が伴わないといけないのでしょうか。
私自身が囚われてしまっている。難しい世の中です。
ではまた。ばいびー。